崩壊する「可能性」と露呈する「潜在性」ーードゥルーズの他者論と盲ろう者の知覚世界

  • 4月 4, 2026
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アイキャッチ画像:「またひとつ賢くなった Vol.4 真実」より

藝大で2025年度後期に開講していた鈴木泉先生による講義「哲学II」のレポートとして書いたものです。授業の中で気になった主題について自由に論じるという課題です。ちなみにレジュメなし、口伝スタイルの授業でした。ドゥルーズの主著は難しくてまだ全然手が出ませんが、先生のおすすめ通り「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」は読みやすかったです! ミリしらからやや知り…くらいにレベルアップできた感じがします。


序論

 筆者が盲ろう者の通訳介助者として働く中で、日常的に繰り返す言葉がある。「この先、上り/下り階段です」「足元、砂利道になります」。これらの言葉は、単なる物理的状況の伝達以上の意味を持っているのではないだろうか。全盲ろう者の福島智は、触覚を介したコミュニケーションについて、「手と手が触れた瞬間、私は世界とつながり、離れればスイッチが切れる1」と語る。この「スイッチ」とは、単なる情報のオンオフではない。他者との接続が切れた瞬間、世界そのものの在り方が変容してしまうのだ。
 本レポートでは、ジル・ドゥルーズがミシェル・トゥルニエの小説『フライデーあるいは太平洋の冥界』を論じた「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」を手がかりに、盲ろう者の感覚を考察する。その際、レヴィナスの他者論、ライプニッツの「可能性」、そしてドゥルーズによる三つのイデーのコラージュとしての「潜在性」概念を用い、最終的に荒川修作によるヘレン・ケラーへの言及を通じて、可能性の崩壊によって潜在性が露呈する間に現れるものについて論じる。

本論

 一般において、哲学における他者論は二種類ある。まず一つ目がフッサールなどによる「どうすれば他者の心がわかるのか」という問いだ。これは、「自分の心は自分が一番知っている」という前提の上に成り立つ問いであり、この前提を取り払うと成立しない疑似問題である。二つ目が、エマニュエル・レヴィナスが『全体性と無限』で提示した他者論だ。レヴィナスにとって他者とは、私の想像によって同一化してはならない存在であり、そこで重視されるのが「顔(Visage)」である。重要なのは、この「顔」は表情のことではないということだ。レヴィナスによれば、他者の「顔」が現れた瞬間、その顔は私たちに対して「私を殺すな」と訴える。この訴えにより、私たちは他者を殺すことができない。これが人間にとって最低限の倫理である。この思想には、ユダヤ人であるレヴィナスが親族をアウシュビッツで殺された経験が根底にある。
 一方ドゥルーズは、これら二種類の他者論のどちらとも異なる議論を展開した。それは、倫理以前の、より根源的な知覚の成立条件に関わるものである。ドゥルーズによれば、他者とは具体的な人格である以前に、私の知覚世界を組織化するための「ア・プリオリな構造」である。この構造としての他者は、私の世界に「余白」と「奥行き」を与える機能を持つ。私が事物を正面から見ている時、その側面や裏側は見えていない。しかし、そこに他者が存在し、私の見えない角度からその事物を見ている(可能性がある)ことによって、事物は平面的であることをやめ、立体的で奥行きのあるものとして成立する。他者の驚いた表情は、私の見えない場所に「驚くべき何か」が存在することを予感させる。つまり、他者とは「可能的な世界」の表現に他ならない。
 筆者が介助現場で「この先、上り階段です」と告げる時、私はまさにこの「構造としての他者」を機能させている。盲ろう者にとって、足元で触れていない階段は「無」に等しい。介助者の言葉が介在することではじめて「まだ触れてはいないが存在する世界(可能性としての階段)」が出現するのだ。

 ドゥルーズは他者を「可能世界の表現」と定義したが、ここで言う「可能性」の意味を理解するために、ライプニッツの「可能性(Possibilité)」を参照する。ライプニッツにおいて「可能性」とは、神の知性の中に無数にある「世界」の設計図のようなものである。神は無数の可能世界の中から最善の一つを選び出し、現実化させる。重要なのは、この「可能性」においては、すべてがあらかじめ計算され、秩序立っているという点である。
 ドゥルーズの文脈において、他者はこのライプニッツ的な「可能性」を私たちに保証する装置として機能する。他者がいるおかげで、世界は「私に見えている現実」と「他者に見えている可能性」によって、秩序ある形に整理される。事物は唐突な衝撃として私を襲うことなく、予感されたもの、あるいは背景として穏やかに移行していく。反対に、他者が不在となる時、この「可能性」というクッションは消滅する。トゥルニエの描くロビンソン・クルーソーが無人島で体験したのは、まさにこの「可能性の崩壊」であった。他者がいなくなると、事物は「可能性」という余白を失い、すべてが「今ここ」にあるか、あるいは全く無いかという剥き出しの「必然」として身体に衝突するようになる。福島が語る「スイッチが切れる」という盲ろう者の感覚は、この可能性の構造が機能不全に陥った状態を指していると言えるだろう。

 では、他者が失われた世界には何が残るのか。ドゥルーズはそれを「潜在性(Virtualité)」の領域への回帰とする。「潜在性」とは、三つの意味でのイデアである。ドゥルーズは哲学史上の三つの「イデー(idea/idée/Idee)」をコラージュすることでこの新しい概念を提示した。
 第一に、プラトンの「イデア」である。本来は現実を超えた「原型」を意味するが、ドゥルーズはこれを転倒させ、固定的な同一性ではなく「差異そのもの」が蠢く創造の母胎と定義する。第二に、ライプニッツの「イデー(微小表象)」である。波の音が無数の水の動きの音から成るように、意識には上らないが与えられている無数の要素を指す。ドゥルーズはこれを現実化していないけれど潜在下にある、同一的とは違った存在の原型として用いた。第三に、カントの「イデー(理念)」である。カントは、魂・神・世界に対する問いは人間の理性を超えた問いであることを示した。ドゥルーズはこの超越論的である点をさらに強調し、問わざるを得ないような「理念」として取り上げる。それはクイズのような問いに対する答えが明確な問いではなく、答えの出ない「問題」としての性格を持つ。このようにして提示されたドゥルーズの「イデー」は、差異が蠢いているが、それが何かは明確にわからず、そして理念的な性格を持っている問題的な場という三つの側面を持っている。

 ドゥルーズは、「可能性」の世界に安住することを良しとせず、「潜在性」への回帰を肯定的に捉えた。トゥルニエのロビンソンもまた、最終的には文明(他者構造)への帰還を拒み、「大いなる健康2」へと至る。講義の中で言及された荒川修作の「三鷹天命反転住宅」は、この文脈において繋がる点がある。荒川は、床を凸凹にし、常識的な生活動線を排除することで、住人の身体から習慣や予測(可能性)を奪おうとした。これは、健常者を強制的に「他者」による安定から引き剥がし、人間の生きる普通の条件を超えていくための装置である。
 マドリン・ギンズ+荒川修作は、『ヘレン・ケラーまたは荒川修作』において、世界で最も有名な盲ろう者であるヘレン・ケラーを象徴的に取り上げている。彼らは、盲ろう者とそうではない人たちが連帯できるネットワークを作るために重要な働きをするのが「切り閉じ(cleave)」だとしている。「切り閉じ」とは、「『くっつく』と『切り離す・切り離される』との両方を意味する3」言葉である。

 何かを思考するためには、あるいはある対象を知覚するためには、どんなに短い間であれ、何か(何らかの事象)に執着する必要があるのだが、それに加え、次の別のことを考えたり、それを知覚できるようにするためには、そのことを受容するための特別の条件が存在できるように、それまでは執着しなければならなかったことからの切り離しがおこなわなければならない4

 この「切り閉じ」は、空間と時間両方に行われるものであり、このような思考を経て生まれた荒川の建築は一種の「人工的な盲ろう空間」とも言えるだろう。

結論

 本論を通して、ドゥルーズの他者論を補助線とすることで、盲ろう者の体験する世界が「可能性の欠如」として記述できること。荒川修作の建築作品はそのような可能性が欠如した一種の人工的な盲ろう空間を目指そうとしていたという点を確認してきた。
 ドゥルーズは、他者構造が消滅した後のロビンソンが、人間的な意味の世界を脱ぎ捨て、島の元素と融合していく姿を肯定的に捉えた。そこでは、言語は脱ぎ捨てられる構造の一つであるかのようにも見える。だが、福島をはじめとする盲ろう者の現実は異なる。彼らはむしろ誰よりも強固に言語的な世界を生きているのだ。「これはコップである」「これは階段である」という言語化がなされなければ、それは世界の中に存在物として定着しない。つまり、盲ろう者において言語化とは、単なるコミュニケーションツールではなく、世界を一つずつ創造する行為なのである。
 三浦雅士は、荒川がヘレン・ケラーを参照する理由を「彼女が三重苦の人、眼も見えず、耳も聞えず、話もできなかったからではない。感覚が遮断されていたからなのではない。遮断されていたにもかかわらず、彼女が言語現象のさなかにあったからなのだ5」としている。荒川が建築作品において提示するもの、そして盲ろう当事者が示すのは、「可能性の崩壊」による「潜在性の露呈」の前に、人間の意識は言語と共にあるという事実なのかもしれない。

1 東京都人権啓発センター「コミュニケーションは“心の酸素”」福島智インタビュー、2009年12月1日、https://www.tokyo-jinken.or.jp/site/tokyojinken/tj-44-feature1.html、(参照:2026-01-28)

2 ジル・ドゥルーズ、小泉義之(訳)『意味の論理学』「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」河出書房新社、2007年、p.228

3 マドリン・ギンズ+荒川修作、渡部桃子(監訳)『ヘレンケラーまたは荒川修作』新書館、2010年、p.23

4 同上

5 前掲書、p.481